夕物語 「温泉」 門外からは、鬱蒼と広がる森のように見えたこの老舗旅館「望月荘」は、湯隠れで一番古い宿らしい。松やら杉やらが林立する広大な敷地には、複数の棟が見とれる。棟の間から露天風呂の湯気が白く煙っている。 「雲のやつら、部屋に入ったみたいだね」 仰々しく見えた本館は、中に入ってみると、今様に改築をして整備されていることがわかった。カウンターになっている受付で、丁寧に来訪に感謝の意を伝える番頭に大名直筆の紹介状を手渡す。途端ににこやかな番頭の顔が曇った。少々お待ちいただけますか、と受付の奥に引っ込むと、間を開けず和装の優しそうな雰囲気の女性が出て来る。 「ようこそお越し下さいました。わたくし、この望月荘の女将でございます。お客様、大変言い辛いことなのですが…」 このようなイレギュラーな対応は慣れているだろうに、さらに言い辛そうに女将は言い淀んでいる。 「――実は、確保できた換わりのお部屋なのですが…旧館にございます。そちら意外の部屋は生憎、祭の影響で満室になっておりまして…申し訳ございません」 頭をしきりに下げる女将から離れ、受付横の待合スペースに移動する。幸い人影は無い。理由もなく、隠れ里が違う忍がつるんでいると、一般人でさえ色々な憶測を持ち危険視することがあるのだ。 歯切れ悪くシカマルは言葉を選んでいた。この男の性格上、女の立場を守ろうとするのは分かるが、この状況ではどうしようもない。女である自分が先に手を打ってしまうしかない。 「お前、ちょっと黙っておけよ」 納得いかなそうな顔をしているシカマルを引き連れて受付に戻る。 「部屋は旧館の部屋で頼みたい…私たちは確かに砂と木ノ葉の忍だが、長い…付き合いなんでね。あまり公にできないが…二人で宿泊したことは幾度もある。だから、今回も問題ない」 な?と半歩後ろにいるシカマルに目配せをする。でっち上げた関係に驚いているのだろうが、元より心情が読み取れない顔だ。しかし、僅かに視線が泳いでいる。 「ただ…申し訳ないが、私たちが旧館にいることは、紹介主の大名や…もし私たちの里の関係者から連絡があった時なども黙っていてくれないだろうか?本館の部屋にいると伝えて欲しい。」 秘密にしていることなんでね、と指を一本口に添えて囁くと、女将は顔をほころばせた。 「――かしこまりました。急な申し出をお受けいただきありがとうございます。すぐお部屋にご案内致します。また…この無礼のささやかな埋め合わせに、お食事を一番上級のものにさせて下さい」 深々と頭を下げる女将を見て、受けておいた方がお互いの関係にも良いように感じた。そのまま、じゃあせっかくなんで、と合意を伝える。 「では、お夕飯は時間になりましたらお運びしますが、お部屋か大広間のどちらで召し上がりますか?」 先ほど玄関にいた女中が前に立ち誘導してくれた。受付横の立派な階段を通り過ぎ、突き当りを建物の奥側へと曲がる。古めかしい渡り廊下を進むと別館を通り抜け、さらに渡り廊下が続く。旧館に続く渡り廊下は古くて長い。女中がこの渡り廊下と旧館は創業時のままの姿だと教えてくれた。 確かに、渡り廊下が旧館に接続する場所には矢印付きで行先が分かりやすく書いてある。これなら時間はかかっても目的地にはたどり着けそうだった。 「…この建物は風格が違うな」 飴色に光る床は歩くたびにギシギシと音がする。壁の漆喰も電灯の装飾も、全体が鈍い色を帯びていて、歴史を感じさられる。一番大切に磨かれてきた建物なのだろう、古くても決して不潔さは感じさせない。 「古い木造建築では珍しく、三階建てなんです。改装した本館や新館と比べると不便なことは多いんですが…一番の貴重な建物ですから」 細い階段を二階へ上がる。途中、踊り場になる場所から中二階のような離れにも廊下が伸びており、この旧館自体も増築があったことが分かる。二階を奥へと進むと水の音が近づいて聞こえた。 「こちらでございます」 「山吹」と表札がかかる扉の前に着くと、女中が引き戸を両手を添えて開ける。簡素な畳敷きの部屋は湯治客がただ横になる場所だったのだろう。八畳ほどの簡素な部屋には押入れと障子窓だけが設えてある。無駄なものはすべて省いたような部屋だった。 「夕飯時や何かご入用な時には出入り口の呼び鈴をご利用下さい。本館に伝わるようになっております。」 それでは失礼しました、と三つ指を着いたお辞儀をして音も立てずに部屋を辞した。緊張が解けて、肩の力が抜ける。正面で茶をすすっているシカマルも、ほうと溜息をついていた。 「ったく、女将にどんなこと言うかと思えば」 気を使う人間がいなくなり、ゆっくりと茶を飲みながら耳をすませる。周りの部屋に人がいないのか、やたら静かだ。窓の外からの水音が気になり障子とガラス戸を開け放つ。露天風呂の音かと思っていたが、旅館の敷地の外れに清流が流れていた。そして、清流を見下ろす位置に露天風呂を囲う竹塀が見える。 「さぁて、早速ひとっ風呂いこうよ」 ずずっとまた一口茶をすすり、とんとんと机の上の紙面をシカマルは指さす。先ほど、女中に手渡された敷地全体の見取り図だった。 「あ……思い出した。その問題があったか」 せっかくこれからの楽しみに盛り上がっていた気持ちが瞬時に霧散する。 「あいつらと鉢合わせない温泉を選ばないとな…5つあるのか」
「これはすごい」 熱い源泉を外の外気にさらすことで、人が入れる温度まで冷ましているらしい。竹を伝って運ばれた源泉は、水で薄まることなく、成分そのままに湯船からどんどん溢れては流れていく。 「…んん――」 誰もいないのを良いことに鼻まで顔をつけてから、ぐいっと体を伸ばす。移動距離もあったが、一日のどたばたした任務の疲れも苛立ちも湯に溶かされていくように感じる。あのめんどくさい二人のせいで散々な任務だったが、帳消しにできそうな気分だ。 「あ、テマリじゃねーか!!奇遇だねぇ」 最悪だ。素っ裸で慣れ慣れしくこちらの湯船に近づいてくるのは、紛れもなく今一番顔を見たくないやつらの片割れ。なぜこんな遠い場所の浴場を選んでわざわざ来たのだか。 「…何しに来た」 ざばざばと桶の湯を勢いよくかぶったかと思いきや、飛び込むようにざぱんとテマリと同じ浴槽にカルイが侵入してくる。反射的に立ち上がり、ざぶざぶ湯船の後方へと退避する。 「おー…テマリっちゃん、いいカラダしてんじゃねーの?」 カルイは擦り寄るように肩を並べる位置に陣取ってくる。すでに男湯とを隔てる壁の傍まで追いやられていた。面倒なので腹を括ってその場に腰を落ち着ける。 「おとめ…?はっ、笑わせる」 下品な表情で、声を潜めて肩に手を回してくる。オトメと名乗る割には、やり方が親父臭いのがいただけない。 「確保しとらん。」 湯で上気していた顔が一瞬で怒りの朱に染まる。分かりやすい。雲隠れの奴らは基本的には悪くない人間たちが多いのだろう。ただし、一緒にいると迷惑以外のなんでもない。 「……?」 予測していた攻撃が来ないので目を開けてみると、立ち上がったカルイは、両手を口の周りで丸め拡声器のようにしている。ゆっくりと、大きく息を吸った――。 「テマリ、おっぱいでけぇ!すっげー!!」 男湯へ伝達するような叫び。あまりに想定外の行動に、カルイを湯船に沈めるのも忘れてしまった。ワンテンポずれて、男湯から聞こえてくる、がらがっしゃんという固い物がぶつかり、ばしゃりと何かが湯に落ちる音。 「……きさま――恥を知れ!なんで男湯に叫ぶんだ?!」 ▲ ページのトップへ戻る |