夜物語 「宿泊」
あまり心が落ち着くことが無かった入浴時間を終え、湯殿入口前にある休憩スペースの片隅に腰掛ける。予想通りに未だテマリたちは出て来ていないようだ。
「お!ビン入りコーヒー牛乳があるぜ。温泉はこーでなくっちゃな」
風呂ぐらい一人でゆっくりしたかったのに、露天風呂で鉢合わせてからこのオモイは何かと自分にかまってくるのだ。とはいえ、強引に引っ張って来るわけでもなく、何やら一人で悶々と問答しながら会話を振ってくるため、無碍にすることができなかった。
「シカマル、のまねーの?」 「……飲む」
宿泊客にサービスしているらしいドリンクが冷蔵庫いっぱいに詰められていた。軽い甘さを求めてフルーツ牛乳を手に取り椅子に戻る。蓋を開けて一口飲むと優しい甘さが広がった。冷蔵庫前に陣取っているオモイを見ると、腰に手をあててコーヒー牛乳を一息に飲み干している。セオリー通りなヤツだ、なんて考えながらちびちび自分のフルーツ牛乳を飲んでいると、女湯から声が騒がしい声が聞こえてきた。
「おーう、お待たせっ!」 「…おせーんだよ、部屋の鍵持ってる自覚あんのかよ?」 「女の風呂は長いに決まってんだろ!?な、テマリぃ」 「長引いたのはお前のせいだ」 「冷たい女だこと。裸で過ごした仲じゃねーの、ウチら」
しつこく絡んでくるカルイを振り払うようにして、テマリが近づいて来る。
「シカマル、すまない、待たせた」 「…おう」
先ほどの露天風呂での事を思い出してしまって視線を合わせるのに躊躇いが生まれる。正面から見下ろしてくるテマリの雰囲気が何やらいつもと違うのは、湯上りで髪を下ろしているせいか。コーヒー牛乳じゃねーか何で一人で飲んでんだ、そこにあるんだからてめーで取れよ、と相変わらず騒がしいやり取りが遠くに聞こえた。
「――えらく騒がしかったな」 「散々だった。何で温泉で体力使わないといけないんだか…あ、フルーツ牛乳?」 「あそこから自由に取っていいらしいぜ」 「馬鹿が騒ぐから何度湯船に沈めてやったか…喉渇いた」
すこぶるあたりまえのように人の牛乳瓶を取り上げてぐいっと煽る。
「おい……」 「あーおいしい。やっぱり温泉は最高だなぁ」 一応不満を伝えたはずなのに、テマリは意に介する様子もない。上の弟に対しての日常的な行動であることは間違いなさそうだった。寛いだ様子で隣りに座ると、残り少ないフルーツ牛乳をさらに口に運ぶ。上気した頬で美味そうに瓶に口づける様は…あまり刺激としてよろしくない。目をそらすと、未だ雲隠れの二人がわやわやと口論していた。こちらもこれが日常的なものなんだろう。 人のフルーツ牛乳をすっかり飲みほしたテマリが声を落として耳打ちをする。 「ったく、読みが外れたな―ーおい、あいつらを巻いてから部屋に戻ろう」 「――分かってる」
無言で立ち上がり、空き瓶を回収箱に収めて館に続く渡り廊下を目指す。
「おい、テマリ、シカマルー!メシ一緒に食おうぜ!」
そんなに甘くはなかったか。後ろからかけられた声にゆっくり振り返る。
「遠慮しとく」 「なんでだよ?晩飯は部屋でも宴会場でも場所選べるんだろ?どーせなら、ウチらの迎賓館のお部屋に招待するぜー?」 「広いんだぜ、迎賓館の貴賓室。部屋が4つもあるし茶室までついてる。いいだろぉ。」 「4つって使いこなせねーんじゃねぇの。茶室って使うのか…?」 「えっと、寝室に2部屋だろ、食事に1部屋。一つは…荷物置き場、かな」 「うっせーな、頭いいヤツは揚げ足ばかり取りやがる。ウチらだって茶ぐらいたしなむんだからな!」 「どうでもいい。私たちは飯ぐらいは静かに食べたいんだ。」 「なんだよ…へぇ結局、二人きりがいいんだなあ?」 「…しつこいなぁ」 「あ、やっぱりそうなんだ。デートだったんだ」 「違げーよ」 「んじゃあ、ウチらがそっちの部屋行くからよ。それでいいだろ?本館はせまーいだろうし、ウチらも大人しくするぜ」 「………」
反論するのが一々面倒くさい…が、こちらの部屋に押し入られても居座られそうでさらに面倒だ。いや、そもそも自分達の部屋の交換については死守して隠し通したい。あんな芝居を打って女将まで騙しているのだから。 「お前らが来たら後片付けが大変そうだから来るな。もういいよ、そんなにご自慢の部屋ならそっちに出向いてやろうじゃないか」 「なーんだ、やっぱりテマリも来たかったんじゃねーかよ!捻くれてんなぁ」 「――。」
基本は冷静なテマリが無言で固く拳を握っている。一日この騒々しいのに絡まれてそろそろ限界なのかもしれない。とん、と軽く背中をはたく。
「―じゃあ、まずオレ達は旅館の人に場所変更について伝えてくるわ」 「さっすがぁ、仕事早いね、シカマル君はー」 「ここの料理長は有名なんだぜ?メシ愉しみだな、テマリ?」 「……ああ」
迎賓館は本館を経由して行くルートしかないとのことで、結局4人でぞろぞろと本館に向かうことになった。渡り廊下を進むと、幾人もの女中が重ねられた膳を運んでいるのに擦れ違う。すでに夕飯のピークタイムのようだった。たどり着いた受付に先の女将や番頭はおらず、呼び鈴を押すと初めて見る年配の女中が出て来る。
「いかがされましたか?」 「すみません、晩飯についてなんスけど…部屋で食べると伝えてあったんですが、この…二人の迎賓館の部屋に変えてもらっていいですかね?」 「あらあら、賑やかでいいですね。かまいませんよ、伝えておきます」 「手数をかける、すまない」 「いいえ、お祭り中は一番に賑やかな時ですから。今日は忍の方も多く旅行されているんですね」 「はあ…旅行?」 「あーやっぱりウチらの他にも宿泊してるんだ。さっき、いかにも忍風情の男がいたぜ?」 「祭りに合わせて休みを取るなんて…余裕があるな…」
人手不足の砂隠れは休みを取るのもままならないと聞く。先の襲撃を経て、木ノ葉もさして変わらない状況なのだが。
「そーいや、晩飯って何が出るんだっけ?」 「ええ、旬の素材を使って料理長が腕を振るっておりますよ。皆様はこちらの郷土料理はお食べになったことはありますか…?」 「いや、未だないな」 「ウチは任務で来たことがあるぞ。夏に鱧(はも)と水蜜桃がうまかった…」 「おい、何でお前だけ食ってんだよ。ずりぃー」 「夏の名物は両方お食べになったのですね。この冬の湯祭りの季節は湯ダコと赤蜜柑が旬ですよ」
聞くところ、迎賓館用の会席料理はこの里で採れる新鮮な素材のみを使っているとのこと。特にこの祭り中は湯ダコを食べ、一年の健康を願うのが里の風習だとのことだった。湯隠れの里ででの食事は初めてなのでこれは楽しみだ。
「…タコを食べる…だと?」
ぼそりと今までにないほどの低い声でカルイが呟いた。
「あんたらタコ嫌いなのか?可愛らしいこと言うんだな」 「馬鹿野郎!ウチらは里のしきたりでくわねーの。尾獣のタコは里の象徴でもあるからよ。食えねぇのとは大きく意味が違うからな!?」 「そーだぞ、食べたくても食べられないんだぞ!」 「食っちまえばいいだろーが。ここでは縁起物だぜ?」 「ふざけんな。できるかよっ」 「そりゃ残念だな。俺らが食べてやるから安心しろ」 「……そうだな」
声の節々から食べたそうな様子が感じ取れるから助言をしてやったのだが、そうもいかないらしい。先のストレスがたまっているのか、テマリの返事は浮かない様子だ。
「さぁて、夕食の準備が整うまでちょっとあるな!ちょうどいいから一勝負やろうぜー」 「温泉といえばー?卓ッ球ぅーピンポーン!」 「いや、私たちはいい…」 「なんだぁ、てめ。砂隠れの上忍は挑まれた戦いから逃げるんだ?だっせぇ」 「――逃げてない」
わいわい馬鹿やっているようでテマリを持ち上げるのが上手いのかもしれない。任務からずっと雲隠れのペースに巻き込まれたまま温泉旅館での恒例行事をこなすことになった。
※ ※ ※
「やっと、寝られる…」 「――大丈夫か、アンタ」
足元でギシギシ鳴る音を最小限に抑えながら、薄暗い廊下を進む。隣りを歩くテマリは珍しく表情に分かりやすく疲労が出てしまっていた。室内履きの足元もぺたぺたと覇気が無い。 旧館に入るとすぐに見える大時計は、もう少しで日付が変わる時刻を示していた。迎賓館から移動して来て、ここまでに擦れ違った人は宿の中居と温泉へ向かう老人が一人だけ。時に話し声が聞こえる部屋もあったが、すでに就寝の人も多いだろう。囁く声は静かな空間に明瞭に響く。
「色々な方面でやりすぎた。散々だよ。」 「なんだかんだで負けず嫌いなのが不味いんじゃねーの?」 「だって、いちいち勝負をふっかけて来るんだもの」 「それに対していちいちしっかり対応してやるアンタもお優しーよな」 「…もう、余裕がなかったんだ、あの…あんなものを食わせやがって…うぅ」 「食わ無くても良かっただろーが」 「トランプも負けるし」 「…それは運が悪かった。それにしても、あいつらもお疲れでさっくりお開きになって良かったじゃねーか」 「さっくりって…この時間まで付き合わされてんだぞ。面倒だから少し飲み物に細工してやったんだ」 「…え?」 「ぐっすり眠れるヤツだ。大丈夫、翌朝にはスッキリ目覚めるさ」
さらりと怖いことを言う。疲れた顔をしているが、しっかり忍の作法を用いてカタを付けたらしい。女は…いやくノ一は怖い。 薄明りだけで照らされた古い階段を上ると、やっと「山吹」の部屋の扉が見えてきた。最初に部屋に通されたのは、もう6時間近く前ということになる。テマリが鍵を袂から取り出す。やっと戻って来れた部屋に、やっと心が休まる気がした、のだが。
「――おー。布団が敷いて…びっちりくっついてるな。さすが女将の行き届いたおもてなしだなー」
愉快そうにテマリはずかずかと部屋に入っていく。対してオレは衝撃的な風景に最初の一歩を躊躇してしまった。ばふん、とテマリはふんわりと膨らんでいる布団に飛び込んで行った。
「あーふかふかだ。たまらない」
もう一度自分の目で確かめた二組の布団は、その間に1ミリの隙間も挟ませないように密着させてあった。扉の前で緩んでいた心が、今やもう極限の緊張を強いられている。よほど羽毛布団がお気に召したのか、テマリは掛け布団にくるまったままこちらを上目使いで見上げて来た
。
「おい、何つっ立ってるんだ?」 「……別に」 「なぁに?緊張してるわけ?お前もまだまだ青いなぁ」 「緊張なんてしてねーよ。ガキじゃあるまいし…」
ガキじゃないからこそ不味いに決まっているのに、弟が二人いる天然姉には理解できないのかもしれない。
「じゃあ、おいでよ――シカマル?」
布団にぬくぬくとくるまったまま、テマリは好戦的な笑顔を向けてくる。何なんだ誘ってるんだか遊ばれているんだかおちょくられているのか…どうしたいんだ?しかし、嗤われるのはむかつくのでと堂々と布団に向かった。
おどついていては男の沽券に係わるのだ。
「なぜこっちに来る」 「…え?」 「オマエの布団はそっちだろ。…もし窓側じゃないと駄目だってんなら変わるけど」 「――別にこだわりはないぜ」
テマリと同じように、ばふっと大の字に布団に寝転がった――これは確かに極上の羽根布団だ。心を落ち着けるべくになるべく、黙って天井の木目の年輪を辿っていたら、ガタリと何かを落とすような音が響いた。続いてぴしぴしとさらに音が続く。
「何だ…?宴会でもやってる部屋があるのかな。隣りか…?上にも部屋があったっけ?」 「いや…古い建物だから屋根裏のネズミじゃねーの?または湿度変化によるラップ音」 「あまり楽しくない回答だねぇ。それにしても、この布団欲しいなあ。砂にはこんな幸せな布団は無いよ…」 「アンタの幸せは簡単だな」
横を見ると予想以上の至近距離で、布団に顔を擦り付けながらテマリが寝そべっている。不服そうに口を開いた。
「なんだと?風の国には温泉はないし…こんな軟らかい布団は気候上不向きだ。四季の旬な食べ物もあるし、木ノ葉は贅沢だぞ?」 「月ごとに木ノ葉に来てんじゃねーか。十分じゃねーの…砂隠れだって良いとこあんだろ」 「ふん。ま、砂隠れは最高に気持ち良い風が吹くし、砂漠の夕暮れの眺めは絶品だけどな。今度じっくり案内してやる」
ぽすりと枕をこちらに乗せてくる。なにすんだと枕を退けると、にやりとあの笑顔がある。未だ慣れないその笑顔から目を逸らせば、寝転がって肌蹴てしまった胸元がさらに心臓に悪い。腕の動きで谷間の深さが変わるのをしっかり目に焼き付けてしまった。
「…しっかり浴衣は着ろよ。だらしない」
不可解な顔を一瞬したが、すぐに胸元を見るなり、何事もなかったように襟元を正している。
「お前、そういうところはしっかり見てるのな。すけべ」 「ばーか、目に入るだろ!」
浴衣を正したテマリは、そのまま今度はしっかり布団の下に潜っていく。
「うーさむ。そういやこの部屋あいつらの部屋と違って寒いな…?火鉢だけだと心もとない。こういう歴史ある木造建築は好ましいけどさ…暮らすには考え物だね」
迎賓館から歩いて来たばかりで忘れていたが確かに空気は冷えている。湯冷めしているのかもしれない。オレも自分の布団にもぐる。
「眠る前だから体温上がってんだろ…寝ちまえば、大丈夫だ」 「うん…」
はぁ、とゆっくりと息を吐く音が生々しく聞こえる。天井を必死に見つめるが、目の端に入る彼女の布団がゆっくりと呼吸に合わせて上下していた。布団の下には、さきほど目に焼き付けてしまったもの…カルイがでかいと叫んでいた――。 がばりと上半身を起こし、布団をめくって立ち上がる。
「…シカマル?」 「もう一度湯につかって来るわ…やっぱり足やらさみぃ」 「そっか。私は朝でいいや…寒くてもう出られそうにない…」
すでに眠くなっていたのか本当に寒いのか、テマリの返事は少し呂律が回っていない。
「…あ、旅館に忍がいるようだし、眠らせたあいつらもしものことがある。油断せずに行ってこい」 「――ああ、大丈夫だ」
油断ならない状況なのは自分の頭の方だった。情けなさに打ちひしがれつつ、気持ちを落ち着かせるためにオレは再び部屋を出た。
-夜物語・了-
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